【映画】今では信じられない昭和のハナシ #連合赤軍 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』
一体、どう【総括】するのか?という、総括責めな映画だった。
いや、そんな時代だったのだろう。
自分よりも10年年上の、年金世代のベビーブーマーのインテリ層が、こぞって 共産主義を礼賛するプロレタリアートへ。平成の現在では『社畜』や『貝社員』としてジョークとして扱われるが…昭和の学生たちは本気だった。
いま、この映画を見ると、当時の学生達の集団リンチをしてまで、総括を論争するロジックが、まさに集団ヒステリーであり、集団による異質、同質の排除化であった。
同じく、amazon primeの三島由紀夫 の割腹の映画『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』も見るが、何がそこまでの彼らを動かしていたのか?の社会背景が理解できない。
当時のボクは小学生だった。近所のヘルメットかぶった学生たちは、異質な大学生に見えた。勉強するために大学にいったのではないのか?と…。
おなじ年代の、『フラワーチルドレン』でも、米国で、LSDやマリファナで愛と平和を、訴えたヘイトアシュベリー属性とは、雲泥の差だった。
全共闘世代のあのストイックさこそ、21世紀の未来から、何が、あれを起こさせたのかを、当時の人達に今一度『総括』してもらいたい。
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程
ベトナム戦争、パリの5月革命、文化大革命、日米安保反対闘争、世界がうねりを上げていた1960年代。学費値上げ反対運動に端を発した日本の学生運動も、安田講堂封鎖、神田解放区闘争、三里塚闘争、沖縄返還闘争など、農民や労働者と共に、社会変革を目指し、勢いを増していった。活動家の逮捕が相次ぐ中、先鋭化した若者たちによって、連合赤軍は結成され、1972年2月のあさま山荘へと至る。その後、彼らの同志殺しが次々と明らかになり、日本の学生運動は完全に失速—。テレビ視聴率89.7%、日本中の目を釘付けにした「あさま山荘」の内部では、一体何が起きていたのか。彼らはなぜ、山へ入り、同志に手をかけ、豪雪の雪山を越え、あさま山荘の銃撃戦へと至ったのか。そして、「あさま山荘」の中で、最年少の赤軍兵士の少年が叫んだ言葉とはー。
ジャンル
若松孝二 監督
『俺が死んでも映画は残る。映画に事項はない。』名言だ…。
プロデュース作品